佐土原の歴史・文化・伝統

佐土原は日本の南に位置しつつも常に中央政治と深く関わりながら日向の国の中心として存在してきました。時代はその特色から大きく5つ、鎌倉時代の田島伊東氏、戦国末期の前島津、江戸時代の後島津、そして明治以降に分けられています。

もっとも勢力を広げたのが伊東義祐で、日向48城の中心として町は栄えました。京都の地名、文化を取り入れ、金閣寺に似せた金柏寺も作りました。○○小路、曼荼羅、祇園など、これらを忍ばせる地名など多く点在します。

伊東を滅ぼし佐土原城主となった島津家久は薩摩の兄弟とともに九州制覇まであと一歩というところまで戦国武将として活躍しました。その子豊久は関ヶ原の戦いで身代わりとなって叔父、島津義弘を脱出させました。秀吉の配下として朝鮮に出兵した時も彼らは幾多の功績を残し、島津恐るべし、九州男児恐るべしのイメージを作り上げてしまいました。戦いに明け暮れ、独特の戦術を用いた家久、豊久、の墓もすぐ近くにあります。

明治元年の戊辰戦争では新政府軍として数百人が参戦し、桑名城の受け取りなどその際立った戦績によって佐土原藩は天皇から「錦の御旗」を授かりました。日本の夜明けに大きく貢献したのです。

明治2年、城の広瀬移転が始まりましたが半ばで中止されたため、佐土原は残った商人の町として栄えました。昭和の初期までたくさんの店が軒を並べていました。

佐土原は教育・文化も大切にしました。日構上人をはじめ、「いろは口説き」で有名な大光寺の古月和尚の墓や佐賀利の生誕の碑、そして5ねんもかけて諸国を行脚した野田泉光院の墓にも行ってみましょう。彼は西の芭蕉とも呼ばれています。これは眺望抜群で、「緑の桜」でも有名な宝塔山公園にあります。

佐土原は権力者のいた町ですから寺院がたくさんありました。江戸時代は上田島だけで25もあり、現在でも7つあります。付属する観音堂や地蔵堂もぜひ拝観したいものです。

いろは口説き

irohakudoki